ドラッカー年譜
1909年 | 11月19日、オーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーン郊外デブリンのカースグラーベンで生を受ける。 父アドルフ(1876?1967年)は貿易省次官(のち退官して銀行頭取、ウィーン大学教授、アメリカに亡命してノースカロライナ大学、カリフォルニア大学ほか教授)。 母キャロライン(1885?1954年)は当時としては珍しい女性神経科医。 |
1915年 | シュバルツバルト小学校に入学。この小学校で生涯の恩師・エルザ先生とゾフィー先生に出会う。 |
1922年 | ドイツ外務大臣のヴァルター・ラーテナウが極右の手によって殺害され、そのニュースに衝撃を受ける。 |
1923年 | 11月11日、共和国の日に左翼の行進に参加し、自らが観察者であることを知る。 |
1927年 | 小学校で飛び級のため、一年早くデブリング・ギムナジウムを卒業。ウィーンを出る。 サロンで文豪トーマス・マンや大軍人モルトケに出会う。 ドイツのハンブルグで事務見習いとして商社に就職。同時に、ハンブルグ大学法学部入学。大学入学審査論文は「パナマ運河の世界貿易への影響」。 |
1928年 | 名門誌『オーストリア・エコノミスト』副編集長カール・ポランニーに出会う。 |
1929年 | フランクフルトでアメリカ系証券会社に就職。フランクフルト大学法学部へ編入。 世界大恐慌で就職先の証券会社が倒産し、失業。 |
1930年 | 地元の有力紙『フランクフルト日報』経済記者となる。 |
1931年 | 国際法で博士号取得。ゼミで教授の代講。そのゼミにドイツ人大学生ドリス・シュミットがいた。 |
1932年 | ナチスが第一党に躍進。危機感を募らせる。 |
1933年 | ジャーナリスト生活の中で『「経済人」の終わり』の構想を練り始める。 初めての著作『フリードリヒ・シュタール??保守主義とその歴史的展開』を名門出版社モーア社より法律行政叢書第100号記念号として出版。出版後禁書とされて焚書処分。 ドイツを脱出。ロンドンでドリスと偶然再会する。 |
1934年 | シティでマーチャントバンクのフリードバーグ商会にアナリスト兼パートナー補佐として就職。 ケンブリッジ大学でケインズの授業を聴講する。自らの関心が人と社会にあることを改めて自覚する。 雨宿りに入った画廊で日本画と出会い衝撃を受ける。そこから日本の明治維新への関心が芽生える。 |
1937年 | ドリスと結婚して、アメリカへ移住。 『フィナンシャル・タイムズ』ほかのイギリスの新聞に寄稿。フリードバーグ商会ほかにアメリカ経済短信を送付。 |
1938年 | オーストリアがナチス・ドイツに併合される。両親もアメリカへ移住。 |
1939年 | 処女作『「経済人」の終わり』を出版。『ザ・タイムズ』誌の書評欄で後のイギリス宰相ウィンストン・チャーチルの激賞を受ける。 ニューヨーク州サラ・ローレンス大学で、非常勤講師として経済と統計を教える。アメリカ全土を講演旅行。 |
1940年 | 短期間、経済誌『フォーチュン』誌の編集に携わる。 |
1941年 | 真珠湾攻撃による日米開戦の直後ワシントンで働く。 |
1942年 | バーモント州ベニントン大学で、教授として政治、経済、哲学を教える。 第二作『産業人の未来』を出版。 |
1943年 | 招かれて、当時の世界一の大メーカー、ゼネラル・モーターズ(GM)のマネジメントを一年半調査。この年アメリカ国籍を取得。 |
1945年 | 第二次世界大戦終結。 |
1946年 | GM調査をもとに、第三作『企業とは何か』を出版。フォードが再建の教科書とし、ゼネラル・エレクトリック(GE)が組織改革の手本とする。ここから世界中の大企業で組織改革ブームが始まる。 |
1947年 | 欧州でのマーシャル・プラン実施を指導。 |
1949年 | ニューヨーク大学で教授に就任。大学院にマネジメント研究科を創設。 マーシャル・プランの策定に協力。 |
1953年 | ソニー、トヨタと関わりを持つ。 |
1954年 | 『現代の経営』を出版。マネジメントの発明者、父と言われるようになる。母・キャロライン没。 |
1957年 | 『変貌する産業社会』において、モダンからポストモダンへの移行を説く。 |
1959年 | 初訪日してセミナーを行う。 |
1964年 | 世界で最初の経営戦略書『創造する経営者』を出版。 |
1966年 | 日本における産業経営の近代化および日米親善への寄与により勲三等瑞宝章を授与される。万人の帝王学とされる『経営者の条件』を出版。 |
1967年 | 父・アドルフ没。 |
1969年 | 今日まで続く転換期を予告したベストセラー『断絶の時代』を出版、知識社会の到来を構想。同時に本書は民営化ブームの端緒ともなった。 |
1971年 | カリフォルニア州クレアモント大学院大学にマネジメント研究科を創設。同大学院教授に就任。 |
1973年 | マネジメントを集大成して『マネジメント』を出版。 |
1975年 | 『ウォールストリート・ジャーナル』紙への寄稿を始める。以降20年にわたり経済と経営について執筆。 |
1976年 | 高齢化社会の到来を予告して『見えざる革命』を出版。 |
1979年 | 半自伝『傍観者の時代』を出版。クレアモントのポモナ・カレッジで非常勤講師として東洋美術を五年間教える。 |
1980年 | 『乱気流時代の経営』を書いてバブルの到来を予告。 |
1981年 | GEのCEOに就任したジャック・ウェルチとともに一位二位戦略を開発する。『日本 成功の代償』を出版。 |
1982年 | 小説『最後の四重奏』を出版。 |
1983年 | 『変貌する経営者の世界』を出版。 |
1984年 | 小説『善への誘惑』を出版。 |
1985年 | イノベーションを体系として捉えた世界で初めての経営書『イノベーションと企業家精神』を出版。 |
1986年 | 『マネジメント・フロンティア』を出版。 |
1989年 | 『新しい現実』を書いて東西冷戦の終結を世界で始めて予告。 |
1990年 | NPO関係者のバイブルとされる『非営利組織の経営』を出版。 |
1992年 | 『未来企業』『すでに起こった未来』を出版。 |
1993年 | 今次の転換期が50年、60年続くものであることを鮮明にした『ポスト資本主義社会』を出版。 |
1995年 | 『未来への決断』を出版。 |
1996年 | 『挑戦の時』『創生の時』(『ドラッカー・中内往復書簡』)を出版。 |
1998年 | 『P・F・ドラッカー経営論集』を出版。 |
1999年 | ビジネスの前提が変わったことを示す『明日を支配するもの』を出版。 |
2000年 | ドラッカーの世界を鳥瞰する「はじめて読むドラッカー・シリーズ」三部作、『〔自己実現編〕プロフェッショナルの条件』『〔マネジメント編〕チェンジ・リーダーの条件』『〔社会編〕イノベーターの条件』を出版。 |
2002年 | 『ネクスト・ソサエティ』を出版。 アメリカ大統領より合衆国最高の民間人勲章「自由のメダル」を授与される。 |
2004年 | 『実践する経営者』を出版。日めくりカレンダー風に名言をまとめた『ドラッカー365の金言』を出版。 |
2005年 | 『日本経済新聞』にて「私の履歴書」連載。『ドラッカー20世紀を生きて』として出版。 「はじめて読むドラッカー・シリーズ」第四部『〔技術編〕テクノロジストの条件』を出版。 11月11日、クレアモントの自宅にて逝去。 11月19日、96歳の誕生日になるはずだった日、わが国にドラッカー学会が設立される。 |
2007年 | 本格的なドラッカー研究誌『文明とマネジメント』(ドラッカー学会年報)が日本で創刊される。 |